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「秋徳湊の戦い」の古戦場跡(徳之島町亀徳)

この海岸一帯を島の人たちはアキチュ浜(東側はカネィク浜)と呼んでいます。以前は
白い砂浜都続き、一部にはアダンも自生しているのどかな海浜だったからです。水稲収粒
の終るころになるとハマオリという夏の折目の祭り郁この浜でなされ、集落は船漕ぎ競漕
やネィンケ(水かけ儀礼)などで賑わいました、しかし、昭和三十一年カら始まった埋立
て工事や港湾整備、護岸堤の懐置等でその浜は殆ど姿を消してしまい、古い時代を偲ぶよ
うすがなくなってしまいました。。、
ところで、このアキチュ浜には島の歴史の中では最も大きい『秋徳湊の戦い」の史実が
秘められています。その戦いは慶長十四年(1609)春三月、薩岸藩の突然の侵攻にょ
ってもたらされました。世に言う「琉球征伐」淋それです。鹿児島県史には、薩摩藩は徳
川幕府の許可を得たうえで準備を進め、棒山久高を主将に任じて総勢三千人の兵士を艦船
百隻で出征軍を編成し、軍律十三条を定めて同年三月四日(旧暦)に山川港を出港したと
その当時の様子が書かれています。そして、奄美大島の各地を平定して南下し、三月二十
一日には威風堂々、帆を違ねて秋徳湊(現在の旬徳港)に押し寄せて来たのでした。島の旧
家の記録(三家録)には、そのとき秋徳村はちようど朝飯の準備中でしたが、突然の大軍
の来襲に驚き、村の老若男女は上を下への大騒ぎに陥ったと記されています。しかし、
のような状況の中にあって、沈着冷静、一歩も引かず住民の先頭に立って薩摩の腫船に対
抗する豪の者郁いました。そのとき島の政治を司っていた捷兄弟と呼ぱれていた二人の若
者です。兄を佐潰良兼淀、弟を坊太賀那と言いました。この二人は三代目島主東之主の息
子で、里ンパレのサームトゥに住んでいましたが、東之主が死んだ直後で後任が決まらず
代理で島主の役を勤めていたのです。
先ず最初に薩摩の艦船から鉄砲を陸に向けて打ってから、大声で次のような問い掛けが
なされました。「汝ら島民よく聞け、琉球の度童なる非礼を糺すため征伐に行く途中であ
る。大島各地は残らず降参した。徳之島も異存なく降参せよ。」ところが佐武良兼掟
はそれに屈せず、島ぐち混じりの大声で次のように答えたといいます。「わが島はいま島
主大親役が不在で、しかも琉球本国よりは何の御沙汰もない、国王よりの命令がないのに
降参することはできない。」と、これを聞いた薩摩軍は大いに怒り、「長詮索は無用だ。
直ちに討つべし。」とついに戦闘那開始されました。淀兄弟は二人ともニメートルを越す
豪力無双の者、牛の皮を胴に巻き、長さ四メートルを越す棒を水章のように振り回しなが
ら、なだれを打って攻め込んでくる薩摩軍の中に襲いかかっていきました。それに斧や鎌
などを持った島の若者たちも大勢加わったので、戦いは大混戦になったといいます。そこ
で登場してきたのが鉄砲です、島の人たちは未だ鉄砲を見たことがありませんでした、渋
谷丹波守が進み出て兄佐武良兼掟の胸元に鉄砲を命中させたので、さすがの豪の者もつい
に戦死してしまいました。それを見ていた弟の坊太賀那は、「棒の先からヒヤー(火)が
出て兄を殺した。皆の者、家にいる妻子をつれて諸田村へ逃げよ。われは今日、死をもっ
て国に報ゆる覚悟であ.る。」と告げ、自分は再び薩摩軍に立ち向かい、弟もついに果てた
と伝えられています。この戦いで地元側は数多くの戦死者を出したと記されていますが確
かな数は分かりません。これ以来、徳之島は他の奄美の島々とともに琉球王国から切り離
されて薩摩藩の管轄に入ることになりました、いまから三八八年前のことです。
一九九七年(平成九年)六月
徳之島町教育委員会
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