サームトゥ史跡(徳之島町亀徳)



古い時代,亀徳はアキチュと呼ばれていた。そのアキチュ集
落で最も早くから開けていた区域がサトゥンバレがいつごろか
ら開けたのかということについては,言い伝え等がなくはっき
りしないが,旧家に残る由緒記によれば,慶長十三年(160
8)に死去した東之主(琉球王朝から派遣された初代島主の次
男。三代目の島主を勤めた。)の事績を説明したくだりに,「
秋徳のサアムトゥのノロと結婚してそこに居住し,男子二人を
生み,さらに後妻との間に女子一人を生んだ…」と記され
ているから,慶長のころにはこのサトゥンバレは徳之島全体を
統治する島主の居住する拠点として,祭政一致時代の中心的役
割を担うまでに発展していたのである。サトゥンバレの開け始
めは,その遥か以前に遡らなければならない。サトゥンバレの
中でも特に中心をなすところがサームトゥであ.った。
それではここで,サームトウ界隈にある聖地について述べて
みよう。まず最初に目につくのがティラ山(内ノ山ともいう)
と呼ばれる聖なる山である。サトゥンバレの西側に聳えている
。この山の北側の中腹にはトゥール墓(洞穴墓)があり,そこ
には遠い先祖の霊が祭られている。このことによって,ティラ
山に宿る神は先祖の霊と深い関係にあることが分かる。ティラ
山の東側の麓にはイビガナシが祭られている。本来,このイビ
ガナシもティラ山の神と深い関係にあつたのだが,後になつて
からその周辺には改葬後の骨が葬られるようになったという。
イビガナシのすぐ南側に位置している広場がサームトゥニャー
である。ニャーはミャーの転訊で,祭りの広場の同義語だと考
えられる。古くは,この広場でノロたちが一族の無病息災や農
作物の豊作祈願などをとり行なっていた。つまり,祈りの場所
である。そのときイビガナシに捧げた歌の詞の中に,ニャーに
は松の木が一本,クバが三本生えていて,きれいな花を咲かせ
ることが語られている。興味深いことだ。以上のような聖なる
空間を一手に引き受けて管理する司祭が,サームトゥのノロで
あった。このノロの住む屋敷がサームトゥトノチである。イビ
ガナシの北隣に位置している。トノチには現在ノロの末窩にあ
たる坂元氏が居住し,古くからのならわしに従って聖地を管理
している。
一方,古い時代のノロたちは,タンジャ石(港の北側に雀え
ていた立岩。港湾埋立てで消滅した。)のあった近くの浜にも
祭場をもち,夏の折目の祭りハマオリなどをとり行なっていた
と伝えられているが,港湾の埋立て工事で浜は跡形もなく消減
してしまった。古くはアキチュンゴ(亀徳川)もこの祭場の近
くに流れ込んでいたという。また,この浜の祭場の北側の岩壁
の中腹には先祖の霊を祭るトゥール墓が残つているし,ハマド
ノチと呼ばれるノロの屋敷名もいまに伝えられている。これら
の条件によっても祭場の跡を伺い知ることができる、
さて,シマの伝統的な夏の折圓の祭りハマオリには,聖なる
山の祭場と浜の祭場の双方が深くからみ合いながら儀礼が進め
られていたのであるが,その両者の間をとり結ぶ道路が「神ノ
道」であった。祭りの日に神々やノロたちの通る聖なる道路の
ことである。しかし,この神ノ道も消減してしまい,いまはも
う確認することができない。
このようにみてくると,亀徳という集落は祭政一致時代の古
い歴史の姿を根のところにもっているたいへん貴重な地域とい
うことになる。それに琉球王朝時代は島の政治の中心地である
ということで,さらに光を添えていた。ところが,慶長の役(
1609)以降は,薩摩藩の管轄下に入ったためにサームトゥ
の政治上の機能も次第に低下し,その後の流れは亀津へと移っ
ていく。そして,明治時代に入つてくると,国家神道の影響を
受けて秋津神社が勧請され,伝統的なイビガナシと合祀される
ようになつて,現在に至っている。

徳之島町教育委員会文化財説明版より