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- 以下は、記事NO. 262 に関する 返信フォーム です -


竹内古文書 投稿者:イサム 投稿日:2006/06/13(Tue) 09:04 No.262
皆さんに竹内古文書の中にある万国図を紹介
これによると、沖縄、奄美の近辺には可也大きな島が

確か名前が「みよい国」「たみらい国」
これを見ると、邪馬台国説も蓬莱島説も説得力が出るけど、
なにぶん竹内古文書自体可也、あてにならない古文書だけに
残念、、
上がオリジナルで南が上になっています。
下は北が上です。

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/13(Tue) 09:46 <HOME> No.264
与那国の海底遺跡や喜界島の海底遺跡がある??とされるウガミ礁なのか?(サイトは下)

http://www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/ryukyuko/index.html

このウガミ礁は海上保安庁の空中撮影地図にわりときれいに写っています。アップしてみてください。喜界島南西の海上です。
http://www4.kaiho.mlit.go.jp:8082/Air_code/ASP/ps_hyouji.asp?kanku_htm=s_index09.htm&hyouteizu_id=4229

この辺は琉球松さんが詳しい??

Re: 竹内古文書 投稿者:琉球松 投稿日:2006/06/14(Wed) 11:49 No.266
 航空写真で見るかぎり、喜界の「ウガミ礁」が人工物であるとは思えないですね。
 これは、沖縄島南部糸満沖の「ルカズニ(ルカン礁=拝ん礁?)」などとともに、正規の地図には記されてこなかったわけで、海ン人達の地名なんでしょう。

 それから「みよい・たみらい」。。。これは難解です。今のところ連想できる地名は浮かびませんね〜。
 まあ、「ニライ・ネルヤ」がちょっとだけカスりますかね(笑)。

画像は『琉球三省並三十六嶋之圖』・1609年以前のものと考えられる。

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/15(Thu) 01:05 <HOME> No.270
古地図の左端に天明5年(1785年)とありますが、原図は1609年以前と言うことでしょうか?誰が何のために作ったのでしょう

ちなみに天明時代は10台将軍家治。田沼に牛耳られて無能と後世に恥を残した人ですね。

喜界はあのままでは自然での造形です。かりに遺跡があったとして何千年経っているわけですから、時間の蓄積での造形の変化を差し引いて、見た限りでどうなのかなと思いますね。いづれにせよ、証言があれば調査すべきでしょうね。

Re: 竹内古文書 投稿者:琉球松 投稿日:2006/06/15(Thu) 23:50 No.271
 喜界など奄美諸島が琉球領のまんまですので、1609年以前の状況図でしょうね。
 しかしまあ、琉球本島は九州ほどの大きさで、しかも台湾より大きい。
 また、台湾の南に「小琉球」が見えます。

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/16(Fri) 00:30 <HOME> No.272
大きさの相違は当時の描写法でしょうね。わざと目的のものを大きくしたりとか。

小琉球島はそのままの名前で現存します。
隋書の「流求」は台湾を指しております。徳之島の歴史書をよむと、ほとんどの人がココの部分を勘違いされていますね。流求を琉球(沖縄)で解説している。「澎湖の東に流求はある」とされる台湾東の澎湖島も現存しますね。地理的検証はしたのかと思うときもあります。台湾側、中国側の文献にも当たるべきでしょうね。台湾ではかつて流求と呼ばれていたと断言しているのですからね。

ネットが出たことで、歴史界は変わると思いますよ。歴史は歴史家のものではなく、みんなが議論できるものですからね。

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/16(Fri) 00:33 <HOME> No.273
間違い:台湾東→台湾西 です。

Re: 竹内古文書 投稿者:琉球松 投稿日:2006/06/16(Fri) 00:57 No.274
 きなりょうさん、どうもどうも。

 戦前の台中で幼少を過ごした叔母によると「台湾は小琉球である」と現地の人から聞かされていたようで、終戦直後の混乱時にも琉球人民(奄美を含む)はイジメられなかったようです。

 僕は『隋書』に言う「流求」は、沖縄島を中心に奄美〜台湾を描いていると考えますが、なぜ台湾人が琉球国を「大琉球」と呼ぶのかよくわかりませんね。
 中華民国総統蒋介石の葬儀の際には、沖縄県知事の席が日本の総理大臣席よりも前方であったという噂は本当だったかもしれない。

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/18(Sun) 13:22 <HOME> No.276
大小の区別は1372年中山の初入貢、冊封使の渡琉以後のようですね。

まだ地理技術が進んでなく、島面積の大小を区別できなかったのか。台湾より沖縄のほうが水域面積が広いということなのか、あるいは文化度が沖縄があるということで敬称なのか。

隋書以後は研究不足で、あいまいになって、台湾〜沖縄・奄美はひとくくりで「リュウキュウ」としていたかもしれません。

時の中国は台湾を恐れていて、台湾研究を何百年も怠たり「化外の地」として無視しています。宋史流求本伝では澎湖諸島と台湾の間には「落セイ」と呼ばれる海域があって海難しやすいとし、行かなくてもいい国の扱いです。事実、澎湖付近は浅瀬が多く潮流もかなり複雑ですね。

この澎湖諸島は結構ポイントになります。中国側の文献にもよく出てきます。福建人が最初に移住したところも澎湖です。
日本が台湾を占領当時、海軍基地(馬公)があった島です。軍事的なキーストーン(要石)の地です。久米島と沖縄島との関係にもよく似ていると思います。

Re: 竹内古文書 投稿者:琉球松 投稿日:2006/06/19(Mon) 20:32 No.277
 きなりょうさん、ありがとうございます。

 中国の文献に出る「流求」はどこからどこまでなのか、確定的なことはまだまだ言えないようですが、「手の入れ墨」は明らかに奄美大島〜与那国島のものですね。

画像は徳之島の針突『奄美の針突/山下文武(まろうど社)2003 』より

Re: 竹内古文書 投稿者:きなりょう 投稿日:2006/06/19(Mon) 23:14 No.278
この本、読みたいんですよね。

うちの祖母(101歳、明治38年)はなかったようなあったような・・ですね。
祖母の母の写真には写っていた記憶があります。

台湾の原住民、現在9部族は刺青の習慣があるようですが、
シマのように女性だけと言うのはありません。

アイヌも女性だけ(たしか)。関連性を調べてみたいですね。


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